本社は久しぶりだ。自分の正当な所属先で何も気負う必要はない、ホームであってくつろぎの空間でもあるはずだ。だがその筈の自社は酷くアウェー、俺にとってはまるで海外に赴任でもしたような気分だった。部外者然とした居住まいの悪さに加えて、それでも自社にはお偉方がいたりする、理不尽な緊張感までつきまとってくる。
出来ることなら、本社には寄りつきたくないと思っていた。本社勤務組は、特権階級でもある。俺のような鉄砲玉で交換可能な兵隊には、関わりのない人種ばかりだし、俺はお世辞を言うのがお世辞にも得意ではない。
俺はいつも客先の会社に出向して仕事をしている。本社には用事がなければ戻ることはないし、客先執務室にはそうして様々の会社からやってきた鉄砲玉が肩を寄せ合って、あるいは罵倒し合って仕事をしている。傭兵部隊同士の寄せ集めのようなものだ、隣の席の奴がどこの会社から来ていて本国に戻ればどんな立場の人間なのか、知りもしない。聞かれなければ答えないだけという場合もあるし、聞かれても正しい答を言ってはいけないことになっている奴もいる、それは暗黙の了解で、だからこそわざわざ「おめーどこの会社よ」みたいな事を問うたりしない。俺はペーペーの一兵卒で、隣の奴もそうなのだろう。もしかすると理不尽に最前線に送られた指揮官かも知れないが、そんなことは全く現場に関係がない。本国でペーペーでも、本社では部課長でも、ここで死ねば骨の色は同じだ。
そんな毎日に稀に現れるのが、こうした帰社の用事だ。本国に戻ったからといってそこでは息をつけるとか安心するなんて事はない、これなら戦い慣れた前線の方がマシというものだ、相手に効果のある武器も盾も、よくよく知れていて、使い慣れているからだ。本社は、自分の国だというのに余りにも、異国、それらの武具も手元にないし、効果の有無さえわかりはしない。
よくスポーツなどで、ホームグラウンドは勝率がいい、なんて物言いを見るが、なんて幸せなのだろうと思う。こうして、ホームグラウンドの方が死亡率が高い残念な兵卒というのも、いるのだ。
いつの間に指紋認証になったのだろう。それよりも、指紋認証になる前はカード認証での入場だった、俺は制式にこの会社の所属なのにカードを渡されていなくて、自社に自由に出入りが出来なかったわけだが……指紋の登録なんてした記憶がない。結局弾かれるのではないか。
自社での居住まいの悪さというのはこういう所だ、まるで暗にこの場所はお前の所属する場所ではないのだと言われているような。
いつ設置されたのかも分からない指紋リーダに指を当ててみる。
ぴっ、という音と共に扉の輪郭の一部に引かれたLEDのラインが、赤から緑に変わる。
えー……何で開くの?
指紋登録した記憶ないんですけど。開いた扉について疑っても仕方がない、どうせ自分にはプライベートもプライバシーも、あったものでは無いのだろう、こんな会社に居ては。
扉を開けて中に入るとまたいつの間にかレイアウトが変わっていた。いつの間にか、と言っても前に帰社したのは既に3ヶ月以上前の話だ、模様替えがあったとしても不思議ではない。
それに、目の前に立っている社員、らしき、人影。見たことのない奴だ、いつの間にか新入社員の採用があったのだろう。いつの間にか、と言っても前に帰社したのは既に3ヶ月以上前の話だ、中途採用があっても不思議ではない。
お疲れ様でーす
なるだけ自然体を装って扉をくぐり、唯一見つけた社員に声をかける。すると向こうも俺を認識したようだ。
少々お待ちください
俺の表情を見て立ち上がり机の上にあるノートのページを捲る。少々お待ちください、とはどういうことだろうか。男は手帳のあるページを見開きして、その中の記述を目で追っているようだ。そして。頭を下げる。
お疲れ様、田中は只今外出中でして
は?
本日、田中の予定にオツカレ様との面会は含まれておりませんね
ここまで来てやっと気付いた俺は、鞄をその辺の机の上に放りながら言う。
オツカレって名前じゃないですよ?
しかし先ほどオツカレと名乗ったじゃありませんか
違います
ていうか俺は自分に〝様〟を付けるほどやんごとなき身分じゃねえ。
そうでしたか、てっきり不審者かと
不審者だってお疲れ様とは言わんだろうし、不審者が田中に会いに来るのかよ?ていうか田中って誰だよ。
だいじょうぶかよこいつ
相手は俺を不審者、と言ったが、しかし正直無理はないと思う。なんせ俺が自社に戻ってくるのは3ヶ月振りだし、俺の記憶ではこんな社員は知らない。
まあ、こういう会社ではよくあることだ、新しい傭兵が増えたことを他の傭兵が知る必要はない。知る必要があるのは、新人とツーマンセルを組まされたときに限る。こうして初対面同士でも、実はお互いに入社数年を過ごした者同士であったり、10年以上この会社で働いているらしいのに一度もその顔を見たことがない社員など、ざらなのだ。
俺はオツカレでも不審者でもありませんって、れっきとしたここの社員です
はっはっは、冗談ですよ、笑ってやってくださいってば
……はは
なんなんだこいつは、人手不足もここに窮したか?日本語怪しい気がするんだけど。
初めまして、大山です。よろしく
小森です、よろしく。
そう言って、彼は鞄を開いて何やら取り出し……いやいやいや、それは。
名刺はいいですよw交換してもしょうがないですし
えっ、そうですか……
残念そうにしている。変わった奴だ、自社内で名刺の交換しても意味ないだろうに。とはいえ、その気持ちは分からんでもない、なんせさっきも言ったとおり、同じ会社の社員であっても出向先の同業者の方が100倍も親しいなんて事の方が、多いのだ。同じ会社でも名前も顔も知らないとなれば、名刺を交換した方がお互いのためだと言うことだってある。
いつからこちらに?
いえ、たったさっきですよ
と思ったら、驚いた。今日入社か。
こういう会社は中途採用ばかりだ、採用時期など不定期で、毎月のように人の出入りがある。バツイチ、バツニなど当たり前で、ほとんどの社員は更にこの会社も辞めていく。だからこそ何年か程度で古参になり、古参の社員なのに見たこともない、何てことになるのだ。年上の後輩も年下の先輩も沢山いる、その多くとは会ったこともない。
成る程そうであれば名刺を交換したくなった理由も分からないでもない、そうだと知っていれば交換に応じてもよかったかなと少し気の毒に思ってしまった。
本社にあまり帰ってこない、というのは何も俺ばかりのことではない。本社勤務組という限られた数名以外はみんなそうで、つまり本社という場所にはほとんど人が居ない。場所が確保されているだけただの見栄なんじゃないかと思うくらいだ。ここは本社に確保された一般社員用の区画で、ほとんどの時間は閑散としている。設置されたP大山は全部共通IDとパスワードでログインできてしまい、業務で使用することもほとんどない、これらの机もただ並んでいるだけの代物だ。
今日はどうされたんですか?
ちょっと社長さんに用事がありまして、契約のことで
ああ
さっき来たばかりだと言っていた、入社初日のレクリエーションだろう。ただ、契約、ということは正社員としての採用ではなく契約社員としての採用なのだろう。中途採用だらけのうちのような会社には、更に契約社員までいる。とにかく人員の数は弾丸の数なのだ、うちの社の人間として外に稼ぎに行ってもらえる人間を増やしたい、そういうことだろう。正社員でなく契約社員であれば少々単価は落ちるが、稼ぎ手には変わらない。
契約のことで用事、となれば契約社員として勤務する上での就業規則の説明や給与の振込先、有給の申請、交通費の申請諸々の事務手続きなどを知らされるわけだ。それは正社員とは別に契約社員用に用意されている。契約社員では、正社員とは違ってそれぞれの規則が適用されるかされないかの範囲が異なるからだ。
社長直々に説明とは
いやはやありがたい限りです、時間を頂いてしまって
まあ、当然でしょう。見ての通り、今日は本社組も出払っているようですし。それとも、社長のお気に入り希望株かもしれませんね。ゴマすっとかなきゃ
やめてくださいよお
本社には事務や人事、あるいは役員クラスを除いても数名のメンバーがいたりする者だが、社長直々とは。
契約社員といえど、今日この場から彼は同僚だ。同じ現場で働かないにせよ、長く一緒の会社で会っても顔も知らない社員がいるのに比べれば、顔を合わせて会話できたことは何かの縁に違いない。
私は、年末調整の書類を提出しに。でも誰に出せばいいのやら、この閑散とした感じ。事務の子までいないときた
書類を放って置いとくわけにも行かない、事務の子かもしくは言づてを受けてくれる人が帰ってくるまで待っている必要があるだろう。幸か不幸か、会社組織はフラットそのもので、社長でも話をする器械は多い、なんせ会わない他の社員よりかは本社に戻ってこれば必ず居る社長の方が幾らかは顔を合わせるのだ。それだけに重圧もあるのだが。最悪社長にお願いすることも、あるだろう。
結局二人で、こんな誰も居ないオフィスで待ちぼうけだ。
何て時間を潰していたら、扉が開いて誰かが入ってきた。まて、今、指紋認証せずに通らなかったか?もしかして機能してないの?
おう、おつかれちゃん。
お疲れ様です
入ってきたのは社長だった。期待していた事務の子ではなかったが、大山さんにとっては待った相手だろう。大山さんの方を見ると、すす、少し急くように前に出て、お辞儀をしている。丁寧な人だなあ、新入社員とは言え、あんな最敬礼なお辞儀をするなんて。
中村社長、ご無沙汰しております。契約の件でお伺いしました
小森さん、わざわざ済みませんね。大山君、ぼうっとしてないでお茶をお出しして。
?お茶?新入社員にお茶って、もしかして今日は入社日ではなく最終面接だった?だとすると、社長が直々にというのも一応納得感がある。
ほら、早く
あ、はい、すみません
ちょっとそちらにお座りになって、お待ちください
社長の口調が、社員や入社希望者に対するものじゃない気がする。なんだか深く考えるのが怖いぞ、俺はそそくさとお茶を入れに給湯室へ向かう。お茶を入れて運ぼうと給湯室を出たその途中で、小森さんとの話の準備をしに場を離れて再び戻る社長と合流した。
小森さん、新しい契約社員ですか?
何言ってんだ、新しい取引先の営業だ
え
まあ、よくあることだ。なんせ、自社の社員の顔なんてほとんど知らないのだから。自社以外の人の顔を見てうちの社員じゃないと判断なんて、出来やしない。
とりあえず、名刺交換してきます……
一回断っておいて、どうやって話を切り出せばいいのだ。勘違いを正直に言っても失礼極まりない。
だから、本社はイヤなんだ。